男子三日会わざれば刮目してみよ正式には、『士、別れて三日、即ちさらに刮目してあい待す。』 (し、わかれてみっか、すなはちさらにかつもくしてあいたいす。) 出典は三国志の「『呉書』呂蒙伝」 この言葉の前に 『呉下の阿蒙(ごかのあもう)』 という言葉を説明する必要がある。 阿蒙の“阿”は、なまえの上に親しみを込めて使う言葉で、日本流にいうと“○○ちゃん”、 つまり、“蒙ちゃん”である。 蒙ちゃんとは、呉の将軍『呂蒙(りょもう)』のこと。 かれは、若い頃から武勇は抜群だったが教養に欠けていた。 一介の武将ならそれでもいいが、全軍を統率する将軍となるとそれでは勤まらない。 心配した主君の『孫権(そんけん)』が、あるとき呂蒙をよんで、学問の大切さを諄々と諭した。 これをきっかけに、呂蒙は熱心に学問を励み、やがて知勇を兼ね備えた人物にみごと変貌した。 あるとき、先輩の将軍『魯粛(ろしゅく)』が呂蒙を訪ね、議論を交わしてみておどろいた。 終始、魯粛の方が押されっぱなしなのである。 魯粛は、呂蒙の背中をたたいて言った。 「きみは実戦だけの人物だと思いこんでおった。いつの間にか、えらい博識ぶりだ。 いつまでも“呉の蒙ちゃん”扱いはできんわい。」 ……これが、『呉下の阿蒙』『呉下の阿蒙にあらず』という言葉ある。 --------------------------------- 『呉下の阿蒙にあらず』といって、後輩の変貌ぶりに目を見張った魯粛に、 呂蒙が答えたことばが、 『士、別れて三日、即ちさらに刮目してあい待す。』 〈士たるもの、三日会わなければ、よくよく目をこすって相手を見なければいけません〉 というものである。 このとき魯粛は、対『関羽(かんう)』作戦に従事するため前線に向かう途中であった。 呂蒙は、関羽の人となりを分析してみせ、さらに対応策を三つあげて魯粛に示した。 魯粛は、その策をしっかりと胸に秘めて任地におもむく。 このときすでに、呂蒙の戦略家しての力量は、魯粛を上まわっていた。 |